誰のための人生なのか?
結婚後も親の顔色を気にしていた
私は、結婚した後も親の顔色を気にしていました。
結婚の翌年、家を構えることにしました。
どこに建てたらよいか考えた時、
パートナーに頼んで私の実家の近くにしました。
パートナーの実家の近くにも候補地はありました。
パートナーは、建てるのはどこでも良いという考えでしたので、
それならばと、自分の実家の近くにしてもらったのです。
自分の親の、特に母親の顔色を窺っての事でした。
私が実家の側に家を建てると言えば、母親も悪くは思わないだろう。
なるべく波風を立てずに済ませたい。そう考えたのです。
このように、大人になっても、
何かを決める時は、自分の考えではなく母親の考えを優先していました。
正確に言えば、
「母親なら○○と考えるだろう」
と忖度して生きていました。
学校卒業後に決まった仕事の勤務地は、実家からかなり遠い場所でした。それで、実家を出てアパートを借りることになりました。
もしも、無理してでも実家から通えるような場所であったなら、
実家を出る機会はもう少し後になったと思います。
自分も、勤務地への通いやすさではなく、
母親の考えを優先していたでしょう。
私にはなるべく家にいてもらい、
家の手伝いをしてほしいという母親の考えがありました。
家から私が出ることを寂しいと思うのではなく。
譲れない決意
仕事は定年までずっと続けるつもりでした。
というより、途中でやめるという事を言い出せなくて、
ずるずると定年まで働くことになるのだろうと思っていました。
でも、ある出来事のせいで、仕事をすっぱりと辞めることになりました。
子どもが生まれてからは、
朝早く子どもたちを実家に預けて出勤し、
夜のお迎えは、早くて7時ごろになってしまいます。
仕事がどうしても切り上げられない時は、さらに迎えが遅くなりました。
そのため、子どもたちはとても寂しかったのでしょう。
下の子どもは、少し精神的に不安定になりました。
かくれんぼをしていると、隠れる場所を指定しました。
自分が指定したところにいるように要求するのです。
「ここにかくれて。」
隠れると言っても、誰にでも見えるところです。
もはやかくれんぼではありません。
私は、胸が張り裂けそうになりました。
毎日、子どもたちは自分の思い通りにならない日々を過ごしていたのか。
自分は、子どもたちに、こんなにつらい思いをさせていたのか、と。
そして、
自分の子どもも幸せにできないのに、
他所様のお子さんを教えることなんてできるわけない、と思いました。
次の日、
来年度の人事について、校長や教頭との面談がありました。
その際、今年度限りで仕事をやめることを伝えたのです。
自分の人生を歩む勇気
校長は、今年度でこの学校を去ることになっていました。
長年の学校勤務を終え、新しい生活を始める準備もあったでしょう。
最後の大きな仕事となる新年度の人事も早々と決め、
今回の面談は、
ただ確認するための形だけのものと認識していたようです。
ですから、私からの大きすぎる要求に納得がいくはずがありません。
罵られました。
また初めからやり直しだと。
なぜ早く言わなかったのか、と。
(人事に関する詳細は面談にて、と言われていたのですが。)
でも、
この時私は、誰に対して迷惑がかかろうとも関係ないと思いました。
誰の顔色も窺う必要はないと思いました。
誰よりも、自分の子どもを大切にしたいと思いました。
教員の代わりはいくらでもいます。
でも、自分の子どもたちの母親は私しかできません。あり得ません。
もしもここで、子どもの側にいるという選択をしなかったとしたら、
きっと取り返しのつかないことになると思いました。
だから、誰に何と言われようともこれだけは譲れませんでした。
アドラーは、
「自由とは誰かに嫌われることである」
と言いました。
私は、
校長から嫌われることで、自分の人生を自由に選択したのです。
そして、
このことは今になっても後悔していません。
この選択をして、本当に良かったと思っています。